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本能寺の変

本能寺の変
1582年06月:本能寺の変 (ほんのうじのへん)

1582年に織田信長の家臣、明智光秀が謀反を起こし、本能寺で休息中の信長を襲った事変。

織田軍 VS 明智軍

本能寺の変の背景

信長が天下統一事業を進める中、明智光秀は織田家の家臣として丹波攻略など様々な功績を上げ、柴田勝家や羽柴秀吉らと共に重用な家臣となっていた。
徳川家康の接待のために安土城にいた秀吉に信長は、急遽中国地方で毛利輝元と戦っている羽柴秀吉の援軍として備中高松城への援軍の命を下す。光秀は自身の本城である坂本城に戻り、援軍の準備に取り掛かるのであった。
一方の信長は、自身も中国地方への出陣のために京の本能寺に向けて、安土城を後にした。

本能寺の変の結果

明智軍の勝利。織田信長・信忠両名自害

本能寺の変の経緯・詳細

1582年5月26日
明智光秀が坂本城から丹波統治の拠点として築いた亀山城に移動して引き続き中国地方出陣の準備を進める。

1582年5月27日
光秀が愛宕神社にて戦勝祈願。

1582年5月28日
愛宕山にて、嫡男の光慶や連歌師の里村紹巴らと連歌会を開催する。
光秀はその時、
「ときは今 あめが下知る 五月かな」という句を詠んだ。

1582年5月29日
信長自ら四国へ出陣するために安土城から京の本能寺に移動。
本能寺には夕方前には到着。この時の信長の周りには僅かな数の配下しかいなかった。

1582年6月1日
信長は本能寺で公家たちに向け茶会を開き「西国の制圧は造作も無いこと」といった旨の発言があったと言われる。
この日、織田信忠が村井貞勝とともに本能寺に到着。信忠は夜更けまで滞在しのち本能寺から1kmほど離れた妙覚寺に移動する。

一方この日、明智光秀は明智秀満や斎藤利三を集め信長に対し、謀反を起こすことを表明。
夕刻前には13,000の兵を率いて亀山城を出発。この時は兵には信長に軍勢を披露するためという旨の説明をしていたという。

1582年6月2日
午前0時すぎ、いよいよ京に兵をすすめここで初めて光秀は「敵は本能寺にあり」と全軍に進軍の目的を告げたという。
明智軍は本能寺を包囲し午前6時ごろに攻撃を開始した。
森蘭丸の報告で光秀の謀反と知った信長は弓・槍で自ら戦い善戦したが、やがて追い詰められ建物に火をかけ奥の部屋で自刃した。

妙覚寺にいた信忠は異変をしった事には本能寺は炎上しており、父の救出は断念し500人ほどの配下と共に二条御所に移動する。
明智軍は二条御所も包囲する。信忠軍は善戦するがやがて数に押され、ついに信忠も自刃するのであった。

信長と信忠を亡き者にした光秀はその後、安土城を目指し兵を進めるが近江の山岡景隆が光秀への協力を拒否し、瀬田川にかかる橋を焼き落としてしまう。
仕方がなく光秀は坂本城へ帰還したのであった。

本能寺の変による影響

光秀はその後、安土城を占拠し細川幽斎・細川忠興親子や筒井順慶らを味方につけようとするが、両者とも協力を拒否。その後中国大返しで予想外の速度で京に入った羽柴秀吉と対峙し光秀は敗北して坂本城に落ち延びる際に落ち武者狩りに襲われ、ついに自害した。

その後は秀吉が清州会議などをはじめ、当主を失った織田家を掌握し柴田勝家や徳川家康などと交戦した後、天下を統一し豊臣の時代を築くのであった、

全体兵力

敗北
織田軍
本能寺:20〜150・二条新御所:500〜1500人
勝利
明智軍
13000人

参加大名家

織田軍
明智軍

参加武将

織田家
織田信長
織田信長 死亡
森蘭丸
森蘭丸 死亡
織田信忠
織田信忠 死亡
村井貞勝
村井貞勝 死亡
森坊丸 死亡
森力丸 死亡
明智家
明智光秀
明智光秀
溝尾茂朝
藤田行政
斎藤利三
斎藤利三
明智秀満
明智秀満
明智光忠