1560年に尾張国桶狭間で勃発した織田信長と今川義元の戦いである。
織田家・今川家両家は織田信秀の時代から、三河・尾張の国境地帯を中心に領土争いを繰り広げていた。織田家は織田信長が家督を継ぎ勢力を伸ばすが、今川義元は北条・武田と甲相駿三国同盟を結び東の守りを盤石とし、更に弱体化する三河の松平家も保護下に組み入れる。
こうした状況の中、今川義元自ら大軍を率いて尾張に侵攻を始め、圧倒的な兵力差で迎え撃つ事になった信長は絶体絶命の状況に陥るのであった。
織田軍の勝利
今川義元討死
1560年5月10日
織田信長が尾張統一を目指し、鳴海城と大高城のそばに砦を築いた事で今川義元がついに信長との対決を決意する。
先鋒隊として遠江の井伊直盛を大将とする5000の兵を出陣させる。この中には後の徳川家康となる松平元康も参加していた。
1560年5月12日
今川義元が今川館を2万の軍を率いて出発。
1560年5月17日〜18日
今川軍の先発隊が尾張に侵攻。18日には本体も尾張に入り、沓掛城で軍議を開く。
そのころ信長も清州城で重臣達と軍議を開く。軍議では特段指示を出さずに終了するが、これは今川軍に情報を漏らさないように信長が味方をも欺いた行動とも言われている。
18日中に今川軍は丸根砦と鷲津砦の攻撃隊を大高城に入城させる。
1560年5月19日
松平元康が佐久間盛重が守る丸根砦を攻撃する。
午前6:00頃、砦への攻撃の報告を受けた信長は、総長に突如出陣命令を下し家臣に先駆けて清州城を出発する。信長が向かったのは熱田神宮で、ここで家臣達と合流をし戦勝を祈願して士気を鼓舞した。
午前9:00頃、今川軍は丸根砦と鷲津砦を攻略することに成功する。
信長は最前線となっている中島砦に到着し、疲弊している今川軍を見て勝利を確信する言葉を家臣に訓示して更に士気を上げていく。
その後、2つの砦を攻略した今川軍は中島砦の前に桶狭間山で休息をとる。
午後1:00頃、桶狭間山で休息中との報を受けた信長は中島砦を後にして義元との直接対決に向けて進軍を開始した。
午後2:00頃、桶狭間山に到着した信長はそのまま今川軍を攻撃。今川軍はたちまち大混乱に陥る。
午後3:00頃、混乱の中追い詰められた義元が服部小平太と毛利新助により討ち取られる。
午後4:00頃、信長が義元の首を確認し移動を開始。熱田神宮に立ち寄った後清州城に帰還した。
1560年6月1日
義元の死後もなお信長に抵抗を続けた鳴海城の岡部元信は、義元の首と引き換えに城を明け渡すことを提案。信長はこれを受け入れ戦は終結した。
当主である義元が死去したことで今川家は著しく弱体化。
三河の松平元康は今川家から独立し、後に徳川家康となる。今川家の弱体化の影響は甲相駿三国同盟にも大きく影響を及ぼし、同盟と敵対する上杉謙信に関東勢が味方をし、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いの遠縁にもなった。更に武田家との関係も悪化し、やがて今川家は滅亡の一途をたどることになる。
一方織田家は独立した徳川家康と同盟を結び、美濃へ兵力を注ぎ天下取りへ向けて動き出すことになる。